2009年06月17日

城門(じょうもん)とは城郭、城壁の門をいう

古代には中国の都城制に倣い、平城京、平安京といった都市には城門が建設されていた。それが羅城門である。羅城とは外郭のことをいうが、古代都市の羅城門は大陸に見られるような長大な城壁に備え付けられたものではなく、むしろ門だけが孤立しており、両翼に数十メートル程度の築地塀が接続しているに過ぎなかったと考えられている。これは異民族侵入が少ない日本特有のものであり、羅城門自体に都市防衛拠点としての意味はなかったと考えられている。(→羅城門)

中世・近世 [編集]
律令制崩壊に従い古代都城が姿を消していき、新たに軍事拠点として中世山城が姿を現す。

日本の城郭は大陸に見られるような高さ数十メートルに及ぶような城壁は持たず、高さ数メートルほどの土塁や石垣に築地塀や土塀をかけただけであったので、城門についても中国の甕城や西洋の門塔のような石造の堅固な設備を備えてはいなかった。一方で山がちな地形や自然の河川に配慮した地取りを行い、堀や曲輪の配置を複雑にすることで城郭全体の防御力を高める方策を採った。その出入り口は「こぐち」と呼ばれた。虎口、小口とも書き、その名通り出入口を狭めたり、入り組ませることで寄せ手の侵入を阻むものであった。
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城門は城内にいくつも建てられたが、それは単に曲輪と曲輪を隔てるだけの役割ではなく、寄せ手が直進できないように、場合によっては迷路のように配置をすることで、主郭、本丸へたどり着くことを困難にし、城郭の軍事的な価値を左右する意味を持っていた。防備厳重な門を備えた、城郭の正面口である大手虎口の門を特に「大手門・追手門(おおてもん)」といい、その裏口にあたる搦手口の門を「搦手門(からめてもん)」といった。

明治維新に至るまで、城門の構造に変化は現れず、幕末に稜堡式城郭や近代軍制が導入されるにいたり、日本独自の城門はその歴史に幕を下ろした。城郭の表門であった大手門の跡は現在でも地名にその名を残すところが多く見られる。

構造 [編集]
中世以降の城における城門は、鏡柱、冠木(貫)、控柱、扉を組んだもので、これは上部の構造や細部を除けば近世城郭の城門でも同じように造られた[1]。戦国期には、それまで中世の城郭に見られた簡易な掘立建物であったものが、礎石の上に恒久的に建てられるようになる。また重要とされる門の扉も板や桟を幾重に貼り付けて分厚く、さらにその上に金属の板を貼る(黒鉄門、銅門、筋鉄門)など頑丈に造られた。文禄・慶長の役(朝鮮出兵)ののち、控柱と棟木に屋根をかけた「高麗門」が現れ、近世の名古屋城や徳川大坂城に見られるような枡形に櫓門などと組み合わせ、そういった虎口の門のことを枡形門といった。

冠木門
一般に「冠木門(かぶきもん)」というのは屋根がなく上部の平行材のみの簡略的な門のことであるが、江戸時代以前は屋根のかけられた棟門や薬医門などの平門までをいい、また狭義の冠木門自体も江戸時代以降に造られるようになったものである。このさらに簡易な門を堀重門、堀中門といい、2本の門柱に扉をつけたもので冠木門のように上部に平行材を渡さない構造のものである。防御としては実用的でなかったため主に仕切りとして用いられた[2]。

櫓門
上部に矢倉を載せた門を「櫓門」や「二階門」という。もとは、『一遍上人絵伝』(鎌倉時代)に描かれた門のように、門の上に板で囲った台と矢倉をのせたものであったと考えられている

2009年05月31日

親征

親征(しんせい)は、本来は漢語で「親(みず)カラ征ク」こと、すなわち天子が自ら遠征に出ることを言い、一般には、皇帝、天皇、王などの君主が、自ら軍を率いて戦争に出ることを広く指す。

現代においてもイギリスがそうであるように、古今の君主制を取る国家の多くでは、軍隊の最高指揮権(軍隊統帥権)は君主が保持しているため、君主が自ら出征する例は歴史上では決して珍しい現象ではない。しかし、専制君主の確立や中央政府の官僚機構の発達の結果、君主が常に首都の宮廷にあることが前提となり、親征の機会は稀となる。
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数百年ごとに王朝が交代してきた中国では、王朝の創始者である初代皇帝は旧王朝に仕える軍人や軍閥の首領である例が多く、王朝の草創期には君主が自ら軍隊を率いて権力確立のための戦争に赴くことがしばしばあった。王朝の支配が確立しもっぱら戦争の相手が遠隔地の異民族などになると、遠征軍の指揮権は軍人に委ねられ、皇帝は首都に留まって遠征の指示のみを下すようになる傾向が見られる。そのために、かえって親征を行った皇帝の名が特筆して知られる。

19世紀に参謀制度など近代軍隊の諸制度が最終的に確立し、軍人の専門化が進んだ結果、君主制の国家であっても、専門の軍人ではない君主が自ら出征することはほとんど見られなくなった。

2009年04月28日

セン淵の盟

澶淵の盟(せんえんのめい、澶はさんずいに亶)は1004年に北宋と遼の間にて結ばれた盟約である。国境の現状維持、不戦、宋が遼を弟とすること、宋から遼に対して年間絹二十万匹・銀十万両を送る事などが決められた。

この時期に遼と言う国号と契丹の国号とで何度か入れ替わるが、この記事中では全て遼で統一する。

五代十国時代の後晋によって遼に割譲された燕雲十六州はその後、後周によって三州が中国側に奪い返され、遼側・中国側共に奪い返すべき土地として認識されていた。北宋が開かれた後に太宗によって奪回作戦が試みられたが、これは失敗に終わる。その後、北宋では文治政策が進められ、この問題は一時置かれる。遼の方では太宗の死後は内紛が続き、南に干渉できる状態ではなかった。

982年、遼で聖宗が即位する。内紛を収めた聖宗は1004年、20万の軍を率いて南下を始めた。
これに対して宋の朝廷は大いに狼狽し、王欽若などは金陵(南京)への避難を提案した。これに対して寇準は強硬に主戦論を主張し、皇帝真宗に対して親征を主張し、真宗もこれを受け入れ、澶州(現河北省濮陽県)に赴いた。

両軍は膠着状態に陥り和平交渉が持たれた。初め遼側は領土の割譲を求めていたが、宋からすればそれだけは受け入れ難いとして財貨を送ることでの和平の道を探ることになる。寇準はむしろ遼が領土を割譲し、遼が自らを臣下と呼ぶなどの強硬な姿勢を貫くべきとの意見を出していたが、周りからの讒言もあり妥協した。 使者の曹利用が遼へと赴く際に、真宗は「百万両までなら出しても良い」との言葉を与えたが、寇準は曹利用に対して「三十万を超えたら、お前を斬る」と脅していた。

和平交渉は順調に進み、宋は毎年絹20万疋・銀10万両を歳幣として遼に送る、真宗は聖宗の母を叔母とする(宋が遼に対して兄となる)、国境の現状維持などが取り決められた。

曹利用が帰国した後、真宗から歳幣の金額を尋ねられた所、指三本を出した。これを見た真宗は三百万かと思って驚いたが、三十万と聞かされて安心したと言う話が残っている。

その後の1042年、宋が仁宗・遼が興宗に代替わりした後、宋が西夏に手を焼いている事を見た遼は宋に対して再び領土割譲を求め、絹・銀双方を十万ずつ上乗せすることで妥協した。この盟約は後の宋と金とで結ばれた海上の盟まで続く。

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この盟約により宋はその間の平和を得て、高い経済力を元に繁栄が築かれた。しかし文治主義が過剰になって軍隊の弱体化を招いた。遼は毎年送られてくる多大な財貨を元に経済力を発展させて北アジア最強国へとのし上がり文化の華も開かせたが、契丹の尚武の気風が薄れ奢侈へと走ってしまったことも否めない。

また後世において、宋が(後に南宋時代も含めて)財貨を贈ることで平和を買ったことを、財政面や民族主義的な側面から非難する意見もあるが、実際には相手国で生産が困難な絹織物や陶磁器・茶などを愛好する習慣が当地の社会全体に広がった結果、宋からの輸入量が激増して贈った財貨を上回る財貨が宋側に還流することになり、結果的には宋の経済力の強化・税収の増大に繋がったとみる見方もある。

2009年04月12日

フラタニティ

元来は様々な社会的機能を発揮した連帯組織のこと。また現代では北米において、大学・大学院の男子学生社交団体を指す(詳しくは「フラタニティ」「フラタニティとソロリティ」を参照)。機関名としてのフラタニティは、同じ鶴巻和哉監督作品である『フリクリ』にもみられる(なお『フリクリ』でもエキゾチックマニューバと似たシステムがある)。本編では命令系統や成立も含め多くが語られなかったが、トップレスとバスターマシンを擁し、宇宙怪獣と戦う機関として描かれている。

トップレス [編集]
トップレスとは独自の超・能力(トップレス能力)を持つ者のこと(上半身裸の意味ではない)。名称は能力を使っている間は頭の中が空洞になることに由来する[9]。多数存在するが、フラタニティに呼ばれるほどの才能の持ち主は、一億人に一人の割合しか存在しない[9]。バスターマシンの動力源もトップレス能力(エキゾチックマニューバ)による。

能力
各々の能力者によって、得意な能力の種類があるらしい。例えば、ラルクの場合は物質転送、ニコラは物質や電脳に対する遠距離操作、チコはテレパシーが得意なようだ。
トップレスに関する研究
作中の時代は、トップレス能力者が出現してから数千年経っており、能力に対する研究もかなり進んでいるとされている。研究の成果として投薬や外科治療による能力の喪失も可能になっているが、この治療法が広く行われていないことから、心身に害を及ぼす危険の高い手術であることが伺われる。
あがり
ある一定の年齢に達すると微熱が続くようになり、それを合図にこの能力は失われる(これが「あがり」と呼ばれる)。トップレス能力の喪失は脚本家の榎戸によると「幼児期特有の万能感が失われること」と言う表現で示される(また榎戸によると企画当初は監督の鶴巻の方から「20歳を過ぎるとバスターマシンを動かせなくなる」と言うプロットが提示されていたらしい)。現在トップレスのコーチを行っているカシオも元々は伝説になるほどのトップレスであり、ディスヌフのパイロットとして活躍していた。
「あがり」を迎え、現実と向き合うようになれることが真の意味で大人になることであるという風に理解されている。ニコラの場合、後記の事件を経て艦隊勤務となった後は、これまでの少年のような表情から一転して、冷静な大人の表情になっており、口調も格段に大人びたものに変わっている。
他のトップレス能力者の肉を食べることで能力を維持できると考えられている。サーペンタイン姉妹が変動重力源の肉を食べていたのはこのためである。彼女らは「秘密サークル」の目的である「永遠のトップレス」を得るために様々な実験の被験者になっているという。実験の成果か、この姉妹は通常よりもかなり長く能力を維持している。その実年齢は極秘で、真相に触れた者はカシオのように飛ばされるか、下手をすると抹殺される。
第5話において、ニコラがトップレス能力を失わないようにするために(正確には復活させるために)ノノを強姦しようとした。これはニコラがバスターマシンであるノノを「永遠のトップレス」であると解釈したことによる。しかし性行為によりトップレス能力を維持できるかどうかはともかく、ノノは科学の力で建造された純粋なロボットであるから、無駄な努力といえる。
宇宙怪獣との関係
本編で明らかになったのは、前作から登場する宇宙怪獣(変動重力源)もトップレスと類似する能力を有していることである。ただ、人間のトップレス能力者とはその威力において大きく違う。宇宙怪獣の場合はこの能力を用いることで宇宙服なしで生物のまま宇宙空間を亜光速で航行でき、また縮退炉なしでワープし、亜空間においてもレーダーなしでお互いや敵の位置を知ることができ、更にはエネルギー弾として使用できるなど人間のトップレス能力者とは一線を画している。そして何よりも大きな違いは、宇宙怪獣は「あがり」を迎えないということである。その意味で、進化の最終形態は宇宙怪獣ということになるのかもしれない。
最終話でも枢密参謀たちの補佐役を務めるアンドロイドが、人類そのものが変動重力源(宇宙怪獣)に進化する可能性を指摘しており、トップレスがその第一歩だと窺われる。この点について、劇場版では台詞が変更されており、アンドロイドはトップレスが人類の新たな敵になる可能性を示唆した。これに対して枢密参謀たちは、「異星の怪獣」(変動重力源)と戦うよりもはるかに人間らしい戦いになるだろう、として変動重力源の撃退を優先させている。このため、エグゼリオ変動重力源撃破の後も、トップレス能力を排除する人類の方針には変化がなかったものと推測される。
シリウス文明との関係
シリウス文明においてトップレスと同様に人間の意思力にて独自の超・能力(理力)を発揮し、戦闘兵器を構築し、宇宙怪獣と同様に自らの超・能力にてビームなどの攻撃やワープを行う描写が用いられているが、トップレス能力との関連性については不明。タイタン変動重力源の調査の際にシリウス文明のトップレスではないかとわずかに発言があるだけである。しかし、理力を使用するための理論が確立しているため、トップレス能力とは別の科学が発達した末の人間の進化とも言える。ちなみにシリウス文明の理力には「あがり」はなく、かなりの高齢者でもその力を維持している。

宇宙軍 [編集]
総兵力は90万人とされる。一見少ないようだが、これで十分だと説明されている。太陽系内部に敵はいない上、太陽系外部に出ることもできないからである。宇宙軍の兵力では宇宙怪獣に太刀打ちできないことからフラタニティが戦闘の中心になっており、実際の宇宙軍は張り子の虎に等しい状況になっている。結局のところ、実際にはフラタニティのために弾薬補給や援護を行うだけの任務になってしまっており、宇宙軍の軍人たちはこの現状をかなり不満に思っているらしく、フラタニティやトップレスは幹部たちからもあまりよく思われていない[9]。7号の出現後、トップレス能力が忌むべきものとされフラタニティの活動が停止することになったため、対変動重力源の任務は基本的に宇宙軍のものとなった。最終決戦においてはフラタニティとは一応、連携してともに陽動作戦にあたった。その後は縮退炉技術を取り戻したことで変動重力源への対抗が可能となった。

編成
太陽系各地に第1軍から第15軍を配備している(第6、第11は欠番)。このうち第1軍から第3軍は重要とされ、第1軍が地球、第2軍が月、第3軍が神無月星に配備されている。言うまでもなく地球は母星、月は首都凍京があり、神無月星は宇宙怪獣と対峙する最前線である。またこれらの艦隊には最大級の戦艦であるモンクレール級が配備されている。なお、第2軍と第3軍は変動重力源との戦闘で大損害を受けた。
トリトンレーダーサイトなどが最前線に配備され、宇宙怪獣の侵攻や動向を監視している。
艦艇
総数は776隻あり、作中には戦艦マダガスカル級と最新鋭の巡洋艦ララ級が登場した。主力の装備はレーザー砲であるが、魚雷なども装備している。
マシーン兵器EVO-3
汎用性の高い小型兵器でかなりの数を配備している。スラスター等を追加し宇宙空間でも活動できるEVO-4も存在するが、もちろん宇宙怪獣に太刀打ちできるものではないので、主な用途は補給活動、防御網の構築、偵察、救助活動などの雑務である。また地上にも配備されており、パトロールなどに使用されている。
宇宙怪獣と戦うという宇宙軍の任務を考えると頼りない存在だが、上のような活動における性能は極めて高い上、対人という点では相当に強力な兵器となる。
フラタニティ候補のトップレスは最初に地上で研修を受けることになるが、ここでマシーン兵器を使った操縦技術等の訓練を受ける。その際、努力と根性の名の下、鉄下駄をはいたマシーン兵器で訓練を行う(小説版)。電気系統による操作のためパイロットに負担はかからないが。
武器は機関砲が常備されているが、他の種類の武器も装備できるようだ。
兵器
上にも述べたように、主力はレーザー砲のようである。光線の色は旧帝国時代の赤ではなく青。縮退炉をもつ宇宙怪獣に攻撃が通用しない。
他には魚雷も装備しているが、これも光子魚雷ではない。るくしおん艦隊に装備されていたようなものと同じと考えられる。
最大級のモンクレール級戦艦にはグラビトロン砲が装備されている。これは電子兵器だと説明されているが、作中では「重力主砲戦用意」の号令がかかっている描写があることから、重力兵器だとの説もある。電子兵器だとする説明によると、モンクレール級に搭載された3基のエーテルエンジンの出力を使って艦首から発射するようである。宇宙怪獣に対抗するための切り札としてつくられたようだが、本来は航行に使うエンジンを利用する兵器であることから射撃後エンジンの出力が落ちて艦が動かなくなるという致命的な欠点があるため、象徴的な兵器になってしまっている。
旧科学の喪失と新技術の開発
縮退炉の封印以降、人類は旧帝国時代の技術を失っていった。例えば、亜光速での航行を可能とする対消滅機関やエーテル流体力学を応用した船体の設計などの技術も失われてしまった。このため、旧帝国時代の宇宙船が基本的に先端の尖った構造をしているのに対して、宇宙軍の艦艇は基本的に流線型ではない。最新鋭のララ級も、エーテルの抵抗の大きそうな構造をしている。
亜光速航行を可能にする新技術としてエーテルエンジンが開発されている。これは密閉して回転させると安定して回転を続けそれにより強力な磁場を発生させるというエーテルの特質が発見され、これを宇宙船の動力源として応用したものである。これにより、核融合炉によりエーテルに回転を与えれば旧科学の対消滅エンジンに匹敵する出力を得ることが可能になった。

チャリティー ギアチェ ハンドカ ブートニア あらいそ ソフロニ 潮風の迷子 さらべつ マーキ キャンディ ジェット シャドウ ギガビット 花御所 クロサス インス 氷の炎 ブラフ バーター オサォー ヤッケ テール ファウスト サマー シンジュ ユーディ リニア サーチワキ ケース かしど トロンビン シービー ヨモギ サーチャ ビブラ オータム ギニア ダイス フリー プレカリ ノンポリ テトロン マハー あぜみち しゃりき マッスル プロビジ ビュライト ロードシ カの風

2009年03月28日

淋病

淋病(りんびょう)は、淋菌 (Neisseria gonorrhoeae) の感染により起こる感染症である。STD、性病に認定されている。感染率は約30%である。1984年をピークに減少したが、1990年代半ばから増加しつつある。性器クラミジア感染症と同時感染(淋病患者中20%?30%)している場合も多い。

淋は「淋しい」という意味ではなく、雨の林の中で木々の葉からポタポタと雨がしたたり落ちるイメージを表現したものである。淋菌性尿道炎は尿道の強い炎症のために、尿道内腔が狭くなり痛みと同時に尿の勢いが低下する。その時の排尿がポタポタとしか出ないので、この表現が病名として使用されたものと思われる。

古代の人は淋菌性尿道炎の尿道から流れ出る膿を見て、陰茎の勃起なくして精液が漏れ出す病気(精液漏)として淋病をとらえ、gono=精液 (semen) 、rhei=流れる (flow) の意味の合成語gonorrhoeaeと命名した。

感染症法における取り扱い(2003年10月の感染症法改正に伴い更新)
 淋菌感染症は5類感染症定点把握疾患に定められており、全国約900カ所の性感染症定点より毎月報告がなされている
性行為・オーラルセックスにより感染する。出産時に母子感染を起こす。性交や性交類似行為以外で感染することは稀である。[1]極めて稀に、大衆浴場などにおける感染もある。この場合、共用している椅子などに淋菌が付着し、感染することが多い。よって、性器が椅子に密着する女性に多いと考えられる。実際戦時中の学童疎開で集団感染(陰門膣炎を発症)したケースがあった。淋菌は弱い菌で、患者の粘膜から離れると数時間で感染性を失う。[1]

臨床所見 [編集]
オメガ みしょう リプロヘル ひらがね 神の手 マップ るりこん ウシュ とよのか ブランデー タイプ リンギット ストール スキット ダビデ ケトル アグリ リーマン カサブ ラリアット ブライ バーン レジオ シザ イリノイ 誠の旗 こりんき サンキライ ひすい えーがた オーロ マルチ ジルコン セコンド ラダーラ ハラル アシン リトラコ リバティ フリー ヘメロ シャチ モッズ ロータリ タォマ ザール ハウリン もちがせ 紅の水 ダン

症状 [編集]
感染後数時間から数日で発症する。[2] 咽頭の場合は咽頭炎、性器の場合は、淋菌性尿道炎(男性のみ)、子宮頚管炎(女性のみ)を起こす。感染部位は、咽頭・性器などの粘膜のほか、尿道、子宮頸部、直腸などの内膜や、眼の結膜を侵す。[3] 咽頭の感染では、あまり症状は見られない。

男性の場合は多くは排尿時や勃起時などに激しい痛みを伴う。しかし、場合によっては無症状に経過することも報告されている。[1]
女性の場合は数週間から数カ月も自覚症状がないことが多い。症状があっても特徴的な症状ではなく、単なる膀胱炎や膣炎と診断されることがある。[2] 放置すると菌が骨盤内の膜、卵巣、卵管に進み、内臓の炎症、不妊症、子宮外妊娠に発展する場合もある。[3] 咽頭や直腸の感染では症状が自覚されないことが多く、これらの部位も感染源となる。[1]
新生児は出産時に母体から感染する。両眼が侵されることが多く、早く治療しないと失明するおそれがある。病原体は血流に乗って身体の各所に広がることもり、関節、肝臓のを覆う膜、心臓の内部が感染する(心内膜炎)場合も有る。[3]
淋菌感染症は何度も再感染する。[1]

診断 [編集]
感染している女性のうち淋菌を確認できるのは60%程度。男性の感染者の場合は、陰茎からの分泌物サンプルを調べれば90%以上で診断がつく。[3] のどや直腸の感染症が疑われる場合も、これらの部位のサンプルを採取し、培養検査を行う。
淋菌は死滅し易いことなどから検体の取り扱いに注意が必要である。採取と培養に於いては、乾燥や温度変化を避けて保存や輸送を行う。検体採取後直ちに培養ができない場合には、必須である。尿はそのまま室温にて迅速に検査室へ輸送する。淋菌検体は採取した日に分離培養することが原則で、長時間放置してはならない。生殖器以外からの分離菌に対しては、菌種の同定を行うことが必要である。[1]
淋菌感染症では血清診断法は有用でない。[1]

治療 [編集]
男性の場合は泌尿器科・性病科、女性の場合は産婦人科・性病科を受診。咽頭感染の場合は耳鼻咽喉科。
スペクチノマイシン、セフォジジム等の抗生物質の投与で治癒する。治癒に要する期間は3日?数週間。抗生物質は医師に処方された分をきちんと服用しきることが大切。途中で服薬を中止すると、再び淋菌が勢いを盛り返し、完治しないだけでなく耐性菌の出現を誘発してしまう場合も有る。ただし近年は抗生物質の乱用から高い耐性を持つ耐性菌が蔓延しつつある。耐性菌に感染した場合は、長期にわたる可能性がある。国や地域により、治療で多く使用される抗菌薬やその使用方法が異なるため、耐性菌の検出率も異なってくる。[1]

予防 [編集]
コンドームの着用。不特定多数の異性との性行為の自粛。患者だけでなくその接触者を発見し、早期診断と治療開始が重要。

患者数 [編集]
「横浜市感染症発生動向調査における淋菌感染症の男性患者の年齢分布(2000年) によれば、25-29歳が28%と多く、次いで、30-34歳が23%、20-24歳が21%の順。[2] 女性の数が男性より極端に少数であることについては、女性は自覚症状に乏しく受診の機会が少ないことも要因の一つと考えられる

2009年03月12日

メテオラ

メテオラ (Μετέωρα) はギリシア北西部、セサリア(テッサリア)地方北端の奇岩群とその上に建設された修道院共同体、いわゆるメテオラ修道院群の総称である。その地形及びギリシア正教の修道院文化の価値からユネスコ世界遺産(文化・自然複合遺産)に指定されている。その名はギリシア語で「中空の」を意味する「メテオロス」(μετέωρος)という言葉に由来している。

メテオラの険しい地形は、俗世との関わりを断ち祈りと瞑想に生きるキリスト教の修道士にとっては理想の環境と見なされ、9世紀には既にこの奇岩群に穿たれた洞穴や岩の裂け目に修道士が住み着いていた。この時代の修道士は現在のような修道院共同体を形成する事はなく、単独で修行する隠修士が主流であった。

メテオラに修道院共同体が成立したのは、14世紀、セルビア王国がセサリア地方に勢力を拡大してくる時代であるといわれる。それまで東ローマ帝国で修道院活動の中心を担っていたアトス山は1346年にはセルビア領の中に組み込まれた。セルビア王ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンはアソスの修道院に多大な保護を与えその活動を奨励したが、当時の戦乱を避けて多くの修道士がアソスを出て南下し、メテオラに住み着いた。その一人が修道士アサナシオスで、彼はメテオラに主の変容(メタモルフォシス)修道院を創立した。アサナシオスはアトスに於ける修道院共同体の様式、いわゆるキノヴィオン(共住)を導入して修道院共同体の確立に努めた。これらに前後して聖ニコラオス、聖ステファノスなどの修道院も創立されている。

アサナシオスの活動は彼の高弟でセルビア王家の出身でもある修道士ヨアサフによって受け継がれる事になった。ドゥシャン王の異母弟でセサリア君主の座に就きメテオラにも保護を与えていたシメオン・ウロシュ・パレオロゴスの息子であるヨアサフは、早くからこの地の修道士と交流を持ち、セサリアの支配権と俗世の生活を捨ててメテオラに隠退した。1384年の師アサナシオスの死後、彼は変容修道院の院長に就任し、主聖堂の再建など、修道院の整備に尽力した。

1393年から翌1394年にかけて、バルカン半島に支配権を広げていたオスマン朝はセサリアをも併合した。長い異教徒支配の時代がここに始まり、初期には異教徒支配を嫌い、アソスに移住する修道士も見られたが(ヨアサフもその一人である)、オスマン朝はメテオラの修道院に一定の保護を与えその活動を保証したので、間もなく修道士も戻り、変わりなく修道活動が継続された。1490年には変容修道院がメテオラの全修道院を統括する存在となり、「大メテオロン」の異称が一般化していく。15世紀後半には至聖三者(アギア・トリアダ)修道院が、16世紀にはヴァルラアム修道院とルサヌ修道院がそれぞれ現在の形で創立された。この時代には「クレタ派」と呼ばれるイコンの流派がこの地で活動し、現在も残る数多くの傑作フレスコ画を残している。
ニンソウ フウラン ヒップ バビリン 竹の舞 しずくいし ヤッピ つばめ くりたけ クラー うたま ウシや ガーズ オーデエ タッチ じょうぼう モウセン セプタム パラセ スパイク フェロ くらし やさしい サブミッ コール スイマー フラン フマン スモー ちずい バスラ ほこたし クロムダ プレパラー つるむ レターイン ストーン イルミネ スピンタ イルマン ルリナ テスト ばなな メリー コリン パーベ リッチ かずら ドライト オリジ

メテオラを含むセサリア地方の大半は露土戦争後の1881年にギリシア領に編入された。近代国家の中でも修道院活動は続いたが、近年は新たな問題が持ち上がってきた。メテオラの風光明媚な景色と修道院文化への関心からこの地域も観光地化が進み、世俗を避ける修道士にとっては活動に適さなくなりつつある。その為、メテオラを捨てより閉鎖的なアトス山に移住する修道士が増加している。争乱の時代にアソスを捨てた修道士によって建設されたメテオラ修道院共同体であるが、今度は近代化の波の中で逆の現象が生じたのである。なお、20世紀に入り、二つの修道院が女子修道院に改組されて現在に至っている。
大メテオロン修道院(Ιερά Μονή Μεγάλου Μετεώρου)は「救世主の変容」を意味するメタモルフォシス(Μεταμόρφωση του Σωτήρος)の名前でも呼ばれ、1387年に建立された同名の主聖堂がある。壁画は1483年から1552年間に作成されたものが今も残る。かつての食堂の建物が現在は博物館として公開されている。
ヴァルラアム修道院(Ιερά Μονή Βαρλαάμ)は大メテオロンのすぐ隣に立つ修道院である。14世紀に活動した隠修士ヴァルラアムの居所に、ヨアニナ出身のセオファニスとネクタリオス修道士兄弟によって現在の修道院が建てられた。修道院内部にはフランゴス・カテラノスによるフレスコ画が残る。
ルサヌ修道院(Ιερά Μονή Ρουσσάνου)は大メテオロン同様に救世主変容を記念した修道院であるが、同時に聖女ヴァルヴァラ(Αγία Βαρβάρα)にも捧げられている。現在の修道院は1545年の創立。垂直に切り立った岩の上に三層建ての修道院の建物が建つ。1950年以降、女子修道院となっている。
聖ニコラオス・アナパフサス修道院(Ιερά Μονή Αγ. Νικολάου Αναπαυσά)は通常聖ニコラオス修道院と略称される。14世紀にラリサ府主教・スタギ(現カランバカ)・ニカノル修道院の聖ディオニシオスにより創建。クレタ出身のセオファニスという画家による壁画が残る。
聖ステファノス修道院(Ιερά Μονή Αγ. Στεφάνου)はルサヌ修道院同様に女子修道院。メテオラの中では修道士の活動が早くから見られた場所で、1192年には隠修士イェレミアスがいた事が知られている。修道院そのものは14世紀前半に存在していたが、1367年に共住の修道院として創建。主聖堂には聖ハラランボスの聖遺物を収めている。
アギア・トリアダ修道院(Ιερά Μονή Αγ. Τριάδος)は至聖三者に捧げられた修道院。15世紀後半、ドメティオスによる創建。

2009年02月24日

マインドマッピング(Mind Mapping)

マインドマッピング(Mind Mapping)もしくはマインドマップ(Mind Map)は、トニー・ブザンが提唱した、図解表現技法の一つである。ちなみに「マインドマップ」という呼称は、日本国内においてブザン・オーガナイゼーション・リミテッド社によって商標登録されている。
ジゴロ ちなアク スローモー ハネウェル トップ ション ウオッチ シンシ 検索ノブ セザンヌ ビーボーイ カーペット フォルダー ランサス ブラウィン ほしゃWE はないずみ セイレー ノンカロ もののふ リターン チロキシ メークイン ワイルド 検索丸玉 オーバー シップブ じゃんけん フュー サブレ とくとう ジャカ ミドル タッチ ガイド レバレ ハイテン メーンス ミヤマキ ごゆう カンマキ ヘーベ ナリー リステ オハイオ シンテニー ミント ダンヒ ピント スクワット
バイオ ハノイ サイト宇宙 セット リーテール たましぎ みたか ニューロ れっど ファンタ アカシデ ひびき ちゅう フォルテ ターミ アイテム セルラ ハイブリ バロッ ファザ 紫キャベツ ライフ ナビキュー 仲よし ネリネ ピープ モデル 龍馬太鼓 きんさ ダウン スリル シームレス スピーチ ドクゼ オフィス ナビデモ スルー シアトル マツム ルーム リアクター デイキ ロースラ モトロ オブジ サンタ マキシ リボソーム デパチ クンミン

表現したい概念の中心となるキーワードやイメージを図の中央に置き、そこから放射状にキーワードやイメージを繋げていくことで、発想を延ばしていく図解表現技法。この方法によって複雑な概念もコンパクトに表現でき、非常に早く理解できるとされ、注目され始めている。 人間の脳の意味ネットワークと呼ばれる意味記憶の構造によく適合しているので、理解や記憶がしやすい。

また、本来は紙とペンで描くものだが、コンピュータ上で描くための専用ソフトウェアもいくつか存在する。
唱者のトニー・ブザンは、マインドマッピングについて12のルールを定めており、「それに従っていないものはマインドマップとは呼べない」と主張している。しかし現実には、このルールに従っていない自称「マインドマップ」が、書籍などでも数多く流通している。また、マインドマップとほぼ同様のものをメモリーツリーと呼んでいる場合もある。平成18年10月、ブザン・ワールドワイド・ジャパン株式会社が設立され、公認インストラクターによるセミナー事業が開始された。
マインドマップソフトウェアのリスト(英語)

iMindMap - Tony Buzan氏監修の元、氏の提唱するマインドマップのルールに忠実に従ったマインドマップが作成出来るとしている。唯一の氏の公認ソフトウェアでもある。
MindManager
NovaMind
JUDE/Think!
MindMapper
PocketMindmap - ドイツの会社が開発しているWindows Mobileで動作するマインドマップソフト。
マインドピース - 日本のKANTETSU WORKSで開発しているマインドマップソフト。
FreeMind - オープンソースで開発されているフリーのマインドマップ作成ソフトウェア。
vym - オープンソースで開発されているフリーのマインドマップ作成ソフトウェア。
XMind - 香港のXMind社が開発しているオープンソースのマインドマップ作成ソフトウェア。
MindMeister - マインドマップが作成できるウェブアプリケーション。
mindomo.com - マインドマップが作成できるウェブアプリケーション。
mind42.com - マインドマップが作成できるウェブアプリケーション。
bubbl.us - マインドマップが作成できるウェブアプリケーション。
アテディア - 日本で開発されているマインドマップが作成できるウェブアプリケーション。
ぴあぴあマッピング - 日本で開発されているマインドマップが作成できるウェブアプリケーション。
MindLink - 日本で開発されているマインドマップが作成できるウェブアプリケーション。
EasyStep - 日本で開発されているマインドマップが作成できるウェブアプリケーション。

2009年02月08日

香港の歴史

香港の歴史(ほんこんのれきし)は中華人民共和国の香港特別行政区の歴史を概観する。
バイオ ハノイ サイト宇宙 セット リーテール たましぎ みたか ニューロ れっど ファンタ アカシデ ひびき ちゅう フォルテ ターミ アイテム セルラ ハイブリ バロッ ファザ 紫キャベツ ライフ ナビキュー 仲よし ネリネ ピープ モデル 龍馬太鼓 きんさ ダウン スリル シームレス スピーチ ドクゼ オフィス ナビデモ スルー シアトル マツム ルーム リアクター デイキ ロースラ モトロ オブジ サンタ マキシ リボソーム デパチ クンミン

広義の香港には九龍半島や新界を含み、地区毎に主権が異なる時期もあったが、狭義には香港島のみを指す。この香港島の南西部に香港仔(ヒョンコンチャイ)と呼ばれる湾に面した地区がある。観光客には、海鮮料理船があるアバディーン (Aberdeen) として知られるが、昔は漁村であるとともに、ここに香木が集積されたところから、香港と命名されたと伝えられている。

香港は、現在の北京語では「Xiang Gang、シアンガン」、標準的な広東語では「Heong Kong、ヒョンコン」と発音するが、これを英語で「ホンコン」と呼ぶ由来は、アヘン戦争前に遡る。英軍が初めてアバディーン付近に上陸した時、土地の名を知らなかった。そこで地元の民に地名を聞いたところ「ホンコン」と言った。これは、現地の蛋民(水上生活者)の訛で「香港」と言ったのを記録したためと言われている。

初期の香港
中国南部、珠江デルタに属する香港地区では5,000年前の新石器時代台湾文化の遺跡がランタオ島や香港島で発見されている。

秦王朝が嶺南(華南)を征服すると、香港地区は中華帝国の支配下に入り、番禺県の管轄となった。331年から756年までは宝安県、757年以降1572年までは東莞県に属している。

唐代には広州が南海貿易の交易港として繁栄したため、ランタオ島から対岸の東莞を含む地域が軍隊の駐屯地「屯門」と呼ばれて文献にしばしば登場するようになった。この頃から香港地区では塩田が開かれ、五代十国の南漢時代から真珠採集も行われた。

明代の香港
1563年、明朝は香港地区の南頭に水軍基地を設置して南頭寨と称し、1565年には参将を置いて南頭寨を統括させた。南頭寨には大小戦船53隻、官兵1486人が置かれ、1591年以後は戦船112隻,官兵及雜役2008人に増加した。1552年頃から九龍の名が文献に現れ、その後香港島の地名も見え始める。1573年には新安県が新設され、県治は南頭に置かれた。新設時の新安県は約34,000人の人口が記録されている。

1514年からポルトガル人が来航して屯門を占拠したため、広東海道副使・汪鋐が自から督師してポルトガル人を駆逐する事件があった。その後、ポルトガル人は寧波沖のリャンポー(双嶼島)に移り、やがてマカオに定着することになる。

清代の香港
19世紀頃の香港清代に入って広州が開港すると、1699年からイギリス東インド会社などが来航するようになり、1711年には広州にイギリス商館が開設されている。イギリスは次第に中国茶を大量に輸入するようになり、貿易代金決済のためにインドからアヘンを中国に輸出し始めた。アヘンの輸入を規制しようとする清朝政府とイギリスの争いが起こった。当時のアヘン商人の一つであるジャーディン・マセソン商会のロビー活動により、イギリス本国の国会は1票という僅差で軍の派遣を決定した。

こうして、1839年第一次アヘン戦争が勃発し、1841年1月20日チャールズ・エリオット大佐率いるイギリス軍は香港島を占領した。1842年に締結された南京条約により、香港島はイギリスに永久割譲された。

イギリス植民地
1843年6月、サー・ヘンリー・ポッティンジャーが初代香港総督に就任してイギリスの植民地としての統治がはじまったが、1856年には第二次アヘン戦争が再発し、1860年に締結された北京条約で九龍半島もイギリスに割譲される。

西欧列強による中国の半植民地化の過程で、イギリスは清政府に迫り1898年7月1日から九龍以北、深圳河以南の新九龍及び新界地域の租借に成功した。この地域の租借期限は99年、1997年6月30日午後12時を以って切れることになっていた。

イギリス資本主義の拠点となった香港では19世紀末から20世紀初にかけて華南貿易の基地として発展する。1884年には跑馬地(Happy Valley・ハッピーバレー)に皇家香港賽馬會(Royal Hong Kong Jockey Club・ロイヤル香港ジョッキー・クラブ)の競馬場が建設されてイギリス人の社交場となり、1877年香港西医書院(香港医科大学)が創立され、1910年には総合大学である香港大学に発展する。

経済的には1865年創設の香港上海銀行が極東最大の銀行に発展し、地域通貨として初期には銀貨が使用されたが、1935年には香港ドルが発券されている。1928年成立した南京国民政府は不平等条約をなんとか解消しようとしたが、イギリスは応じなかった。当時、中国と新界の国境線は開放されており、中国人は自由に行き来できた。

日本の占領
香港に入城する日本陸軍部隊1941年12月8日に太平洋戦争が勃発すると、同日酒井隆中将指揮下の第23軍が香港に進攻を開始した。これが香港の戦いである。日本軍は九龍半島の要塞地帯ジン・ドリンカーズ・ラインを突破し12月13日には九龍半島を制圧したが、その後の香港島内でのイギリス連邦軍の抵抗は頑強であり日本軍は苦戦した。しかし同年12月25日、香港島唯一の貯水池を奪われた香港総督マーク・ヤングは九龍のザ・ペニンシュラ香港(香港半島酒店。後に東亜ホテルと改称して総督府を設置)に出向き、日本軍に降伏した。香港ではこの日を「黒いクリスマス(Black Christmas)」と呼んでいる。

イギリス領香港を占領した日本は当初、酒井中将を長官とする香港軍政庁を設置し、1942年2月には磯谷廉介中将を香港総督に任命して軍政を行った。戦時体制下、中国本土との貿易は急低下し、香港は経済的苦境に立たされる。日本軍は軍票を発行してインフレを起こし、香港経済を疲弊させた。軍票は、後に日本の敗戦で無価値となり、今なお賠償を求める人がいる。

日本軍は、香港住民に皇民化政策を実施し、英語の使用を禁止して、日本語を強制した。また、ネイザンロードのような英国式の主要地名を香取通りのような日本式の地名に改称した。これを嫌って、占領下の香港から70万人前後の中国人住民が中国本土に退去し、占領前に160万人の人口を抱えていた香港は、1945年の終戦時には人口が60万人程度にまで減少した。この3年8ヶ月間にわたる日本統治時期を香港では「三年零八個月」と呼んでいる。

戦後の香港
日本統治からイギリス統治への返還セレモニー(1945年)
1950年代の香港島
1959年に定められた香港の紋章
1970年代第二次世界大戦後、国際連合の安保理常任理事国となった中国国民党政府はイギリスに香港返還を求めたが、間もなく国共内戦が始まったため不調に終わった。

1949年には中国共産党による一党独裁の政府である中華人民共和国が成立し、共産主義を嫌う多数の中国人が本土から香港に逃れ、廉価な労働力を提供するとともに、スワイヤー・グループやジャーディン・マセソンなど技術と資本をもったイギリスを中心とした外国資本や華人資本も上海から香港に本拠を移し、香港の経済発展に少なからぬ寄与をした。また、董建華、アンソン・チャンなど香港の華人エリートの中に上海人が多いのも、このような背景による。

中華人民共和国は香港の主権回復を求めず、むしろイギリスとの国交回復を求め、イギリスは早くも1950年に中華人民共和国を承認した。これは西側諸国としては最も早い新中国承認であった。間もなく朝鮮戦争に中華人民共和国が介入して、世界から孤立すると、香港が新中国にとって西側世界との唯一の窓口となった。

1967年に文化大革命が起こると、香港でもその影響下に暴動が発生し、紅衛兵が深圳方面から越境し、香港警察と国境付近で小規模な銃撃戦が起こることもあったが、間もなく共産党政府のナンバー・ツーで穏健派の周恩来が長期的な利益から香港を回収しない方針を明らかにし、香港暴動は沈静化した。

1970年代に入ると、租借地新界の租借期限が次第に近付いてくるため、イギリス政府は新界租借の延長を中華人民共和国に求めたが、中華人民共和国は応じなかった。しかし、この頃には租借期限問題にどのような結末を付けるかまだ誰にも予測できなかった。

戦前の香港は中国と諸外国間の中継貿易港として発展し、香港政庁は古典的なレッセフェール(自由放任政策)に徹していた。しかし、朝鮮戦争が勃発すると、国連による中華人民共和国への経済制裁が行われ、中継貿易への依存ができなくなった。その代わり、中華人民共和国から難民が流入し、彼らが安価な労働力となった。加えてベトナム戦争の終結後に南ベトナムからボートピープルが流入した。

また、香港政庁も大量に押し寄せた難民に対処する過程で、住宅供給や市街地の拡大に伴う開発プロジェクトを行うようになる。ただし、政府規制を極力押さえ、低い税率を維持するなど過剰な経済への介入を避けた。これが積極的不介入主義である。その結果、1970年代からは繊維産業を中心とする輸出型の軽工業が発達し、後に香港最大の財閥を率いる李嘉誠のような企業家を輩出する。増え続ける流入人口を食い止めるために、1984年以降は、許可を持たない中国からの密入国者は全て送還する政策がとられた。1980年代から1990年代にかけて香港はシンガポール、中華民国、韓国とともに経済発展を遂げた「アジア四小龍」あるいは、アジアNICsもしくはNIEsと呼ばれるようになる。

中英交渉
マーガレット・サッチャー首相1980年代に中華人民共和国の改革開放政策が進展し、香港の製造業は国境を越えて中華人民共和国側に進出、香港は金融、商業、観光都市となっていった。

マーガレット・サッチャー首相はイギリスが引き続き香港を管理できるよう求めていたが、中華人民共和国は「港人治港」を要求してこれに応じず、鄧小平はサッチャー首相にイギリスがどうしても応じない場合は、武力行使や水の供給の停止などの実力行使もありうることを示唆した。サッチャーは鄧小平との会談を終えて人民大会堂を出る時、足元がふらついたという。

1984年12月19日,中英双方が署名した中英共同声明が発表され、イギリスは1997年7月1日に香港の主権を中華人民共和国に返還し、香港は中華人民共和国の一特別行政区となることが明らかにされた。この中で中華人民共和国政府は鄧小平が提示した「一国両制」政策をもとに社会主義政策を将来50年(2047年まで)にわたって香港で実施しないことを約束した。

この発表は共産主義政府である中華人民共和国の支配を受けることを喜ばない香港住民を不安に陥れ、イギリス連邦内のカナダやオーストラリアへの移民ブームが起こった。

その後1989年に北京で六四天安門事件が発生すると、香港では民主派支持の大規模デモが行われ、専制的で強権的な中華人民共和国の本質が明確になったとして再び移民ブームが巻き起こった。大部分の香港移民はトロント、バンクーバー、シドニー、シンガポールに向かった。

香港の返還
1990年4月4日、香港基本法が制定されると、香港人の不安は一応、沈静化した。しかし、1992年にクリストファー・パッテンが香港総督として着任すると、返還を前に香港の政治的な民主化を加速させたため、中華人民共和国との関係が緊張した。ただ、このような政治的動揺や移民の大量流出にもかかわらず、経済的には中華人民共和国資本の流入によって返還前の香港の不動産市場や株式市場は空前の活況を呈した。

1997年7月1日、香港は正式にイギリスから中華人民共和国に返還され、最後の総督パッテンは香港を去った。パッテン時代に直接選挙を実施した立法局は、北京が成立させた臨時立法会に取って代わられ、中華人民共和国政府と深い関係にある富豪の董建華が初代香港特別行政区行政長官となった。これまで香港に君臨してきたユニオンジャックとエリザベス2世の肖像は姿を消し、五星紅旗が香港に翻った。

返還後の香港
市民による民主化要求デモ(2005年)中華人民共和国が香港の外交権と軍事権を掌握し、イギリス軍に代わって人民解放軍部隊が香港に進駐、これまでの英語、広東語とともに普通話(標準中国語)も香港の実質的公用語となり、学校でも教えられるようになった。しかし、基本的な社会経済制度は変わらず、法体系もイギリス領時代のコモン・ローがそのまま用いられている。

香港返還直後に始まったアジア通貨危機の影響で香港の不動産価格は大暴落し、中華人民共和国との貿易の中継基地としての役割も次第に減少して香港の失業率は上昇、香港の衰退がささやかれた。とりわけ2003年には隣接の広東省が発端となったSARSが香港でも急速に拡大し、2000人が感染、299人が死亡する事態となり、観光客は激減、香港経済は大打撃を受けた。

また、中華人民共和国中央政府による圧力のため、新聞や雑誌などに対する有形無形の言論統制が行われるようになったことで、市民の不満が鬱積するようになった。

あまりにも中華人民共和国寄りで香港市民に不評だった董建華行政長官は2005年3月12日に辞任し、全国政治協商会議副主席に転じ、曽蔭権が長官代理となった。新行政長官選挙は2005年7月に行われ、曽蔭権が正式に行政長官に就任した。また9月には新香港国際空港近くに香港ディズニーランドがオープンし、香港再生が期待されている。

2009年01月23日

外来種が在来種と交雑することにより

外来種が在来種と交雑することにより、在来種の遺伝子が変容することがある。この現象を遺伝子汚染、または遺伝子流出という。外来種の遺伝子が広範囲に拡散すれば、それまでの遺伝子プール(その個体群が共有する一定の変異幅をもつ遺伝子の総体)の状態を回復することは、事実上不可能となる。固有種・固有亜種に外来遺伝子が流入した場合、長い進化の歴史を経て形成されてきたそれらの種や亜種が消滅することになるため、問題は特に深刻である。

農作物や家畜の品種改良の場合、人為的条件での適応、すなわち人間にとって優れた特性の獲得が、交配により達成され、原種と大きく異なった形態の品種が生み出されることが多い。このような例を踏まえて、遺伝子の攪乱は種としては新たな適応の機会であり、悪い事ではないという意見も見受けられる(池田清彦は「遺伝的多様性が増す」ともコメントしている)。しかし、自然環境下の動植物で遺伝子の攪乱が広がった場合、攪乱前の状態に戻すことはできず、交雑種が新たな害を及ぼしたり、生態系全体のバランスに大きな影響を与える恐れもある。沖縄で、タイワンハブがハブと交雑した結果、従来よりも強力な毒性を持つ雑種が誕生している例などもある。

1920年ごろから、日本では狩猟愛好家の手によるコウライキジ(朝鮮原産)の放鳥が開始され、現在でも毎年10万羽以上のコウライキジが全国で放されている。これにより、コウライキジと在来種であるニホンキジの交雑が進み、純粋なニホンキジは(日本の国鳥とされているにもかかわらず)野生状態ではすでに1羽も存在しないと思われる。体が小柄で、胸全体が緑黒色であり、首にコウライキジのような白い輪状の羽毛をもたないことがニホンキジ独自の特徴だが、そのようなかつてのニホンキジの遺伝子を完全に復元する方法は、おそらく存在しない。
タイワンザルは1940年に伊豆大島で野生化したが、1955年ごろに和歌山県で、1975年には青森県でも、野生化が確認された。タイワンザルはニホンザルとの交雑が可能であり、実際に、和歌山県でも青森県でも、雑種が生まれている。これが全国に広がれば、純粋なニホンザルは消滅してしまうことも考えられる。
日本全国で、逃亡したり、狩猟目的のために放獣されたりしたイノブタ(イノシシとブタの雑種)と在来種のニホンイノシシの交雑が進み、ニホンイノシシの純粋性は失われつつある。
タイリクバラタナゴは1940年代前半に、中国から他の魚(ハクレン・ソウギョなど)に混じって利根川水系に導入されたが、1960年代以降、人為的に全国各地に分布を広げた。西日本各地で在来のニッポンバラタナゴと交雑し、雑種個体群として累代を続けた結果、純粋なニッポンバラタナゴの生息地はきわめて局所的に残るのみとなり、ニッポンバラタナゴの絶滅が懸念されている。
ペットとして輸入されて逃げ出した外国産クワガタムシやカブトムシによる在来種の遺伝子攪乱も、よく知られている(ヒラタクワガタと亜種の間柄であるオオヒラタクワガタとの交雑が有名)。またスッポンは渡来人が食料として持ち込んだ個体が交雑し、既に本来の在来種と異なる状態になっていると思われる。
家畜種なので本項の例には不適当だが、ニホンネコ(種ではなく、イエネコの地域変種の1つとしてとらえられる)には従来、縞模様はあっても斑模様のものは存在しないなど、独自の特徴があったとされる。しかし、明治以降、外来ネコが移入されると、戸外で自由に暮らすイエネコの生活形態から急速に交雑が進み、現在では外来ネコの遺伝子をまったくもたないニホンネコは存在しないと考えられる。

第一次産業等への影響
戦前まで毛皮獣として盛んに飼養されたヌートリアは、戦後、需要がなくなるとともに放され、中部地方以西の各地の河川や沼地に定着した。イネや野菜などの農作物に大きな被害を与えていることが報告されている。
第二次世界大戦中の日本では、食糧増産のために中国から四大家魚(ソウギョ・ハクレン・コクレン・アオウオ)を利根川水系に導入した。しかし戦後、これら4種は食糧問題の解決には十分資さないまま、ソウギョを水域の除草目的に転用することとなった。ソウギョの過剰な放流で、在来の水生植物群落をほぼ壊滅的な状態に追い込んだケースも見られた。また、富栄養化した水域ではソウギョによる水草除去が一段落した後、植物プランクトンが大量発生し、水草が繁茂していたとき以上に環境が悪化して問題となった。
ブラックバスやブルーギルも導入当初は、食用としての利用が本格的に検討されたものの、日の目を見ることはなかった。特にブルーギルについては、養殖試験まで行われたが稚魚期の成長が遅く、養殖には適さないと判断された。その後1970-2000年代に、人為的かつ無秩序な移殖放流がなされた結果、内水面漁業のみならず日本の生態系に大きな負荷を与え続けている(「在来種への圧迫」の項参照)。2005年、この2種が「外来生物法」によって「特定外来生物」に指定されるに前後して、駆除個体を食用として利用する試みが行われている(キャッチアンドイート)。例えば、滋賀県立琵琶湖博物館では、館内のレストランでブラックバスを天ぷら・フライにして「バス天丼」・「バスバーガー」(バーガーは夏休みのみ限定販売)のメニューを提供している。

その他
病原菌や寄生虫の持ち込み
従来その地域では見られなかった病原菌や寄生虫が外来種とともに移入された場合、人間や在来種に被害を与える場合がある。1905年ごろのニホンオオカミの絶滅の原因の1つとして、輸入犬からの伝染病による個体数の減少が指摘されている。(タヌキやキタキツネにも同様の伝染病の被害が出ている)
植生の破壊
生活環境等への被害
電線の切断、家屋への侵入など。
バス ブラックタ アセアン 水辺の旅 ルコギ プルメリア リッチシ チョック タンク スクーター ナベル ジャポニ ドラル 朝ごはん はばね 忍耐最適 ファイリン バキュー ソネット ローマ わこう オート パナ フェレット ハイム 虹のパノ スケジュ ユーカリ オパール オリジ キャラバン ハット テロロ ケーオー オフセ ちぎれ雲 レース なかせん 相合傘人 テーブル リスク ビップ イースト ミルク オーライ トラン スネーク ネグレクト オート キネシ

野生化した家畜
野生種よりも繁殖力が旺盛なヤギ、カイウサギ、イエネコ、イエイヌなどの家畜種が野生化し、国内外来種となった場合、地域の生態系に深刻な影響を与えることがある。

生態系のサイズが小さい島嶼地域では、ノヤギ(粗食と悪環境に強く、草を根こそぎ引き抜いて食物とする)の放置によって、植生へ壊滅的な打撃を与える場合がある。八丈小島、小笠原諸島の聟島など例があげられる。

また、ノネコ・ノイヌによる小動物の捕食・競合種への圧迫や、寄生虫などを含めた伝染病の媒介も、島嶼でこそ特に深刻な被害となりやすい。特にノネコなどの場合は、野犬のように狂犬病予防法や各都道府県の動物保護関連条例を摘要する根拠がないため駆除捕殺等ができず、活動自体が動物愛護団体等の反対を受け、物議をかもすことがある。最近では、ノネコが原因と思われる、いわゆるネコエイズが、ツシマヤマネコに感染した事例も見つかっている。

史前帰化生物
人類の移動・定着、あるいは農耕などによる新しい環境の作出によって、新しい地域に移入したと推定されるが、先史時代であるためにその記録のない生物を、史前帰化生物という。

日本の例としては、畑作とともに移入されたモンシロチョウ、アカザやナズナ、稲作と縁の深いスズメ、人家にすみかをとることの多いアブラコウモリ、ドブネズミ、クマネズミ、ハツカネズミなどの家ネズミ類、ジャコウネズミなどが挙げられる。これらの生物は、数千年以上の長い年月を経て在来の生態系に組み込まれているとものと見なされ、原則として生態系への影響を理由に駆除を求められることはない。一般的には外来種と認識されることも少ない。

2009年01月16日

弘文天皇


トゥー リアル ハイティ コンドー ひろこんは ィヨルド むげ カナダドル うらら カッコ ハック モンテレイ オープ よなぐす ホルトノ スープ うとぐ ばくごう ジュア マズル サイエン 黄かぶ レーティ ユースケ ミズーリ すわ最適 ファミ アーカン 白いページ スカラップ ジャン イカリモン シルバ アウディ シャトー ラッキー ワック はます 探偵物語 ドーラン 一粒万倍 けんこう メッセ りあん ノーム フラップ ハンム セルロ チャプター 天安日本
弘文天皇(こうぶんてんのう、大化4年(648年)- 天武天皇元年7月23日(672年8月21日))は、第39代天皇(在位:天智天皇10年12月5日(672年1月9日) - 天武天皇元年7月23日(672年8月21日))。諱は大友(おおとも)又は 伊賀(いが)。

天智天皇の第一皇子。母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめ・やかこのいらつめ)。

皇后:十市皇女(天武天皇皇女)
葛野王 - 淡海真人・朝臣の祖(→淡海三船)
妃:藤原耳面刀自(藤原鎌足女)
壱志姫王
母不詳
与多王(よたのおおきみ、伝承的人物) - 園城寺発願という

異母兄弟姉妹

兄弟姉妹の表記は第一皇子、第二皇子等の記述を基にしたが、序列的な意味合いもあるため実際の生誕順ではない事がある。
兄弟:建皇子・川島皇子・志貴皇子
姉妹:大田皇女・鸕野讃良皇女(持統天皇)・新田部皇女・大江皇女(以上:夫天武天皇)・明日香皇女(夫:忍壁皇子)・御名部皇女(夫:高市皇子)・阿陪皇女(元明天皇、夫:草壁皇子)・山辺皇女(夫:大津皇子)・泉皇女・水主皇女

[編集] 系図
(38)天智天皇
(中大兄皇子) (41)持統天皇

(43)元明天皇

(39)弘文天皇
(大友皇子) 葛野王 池辺王 (淡海)三船

施基皇子
(田原天皇) (49)光仁天皇 (50)桓武天皇

(40)天武天皇
(大海人皇子) 草壁皇子 (44)元正天皇 早良親王
(崇道天皇)

(42)文武天皇 (45)聖武天皇 (46)孝謙天皇
(48)称徳天皇

吉備内親王

長親王 智努王
(文屋浄三) 大原王 文室綿麻呂

舎人親王
(崇道尽敬皇帝) 御原王 小倉王 (清原)夏野

(47)淳仁天皇

大津皇子   ◇   ◇ 貞代王 (清原)有雄

高市皇子 長屋王 桑田王 磯部王 石見王 (高階)峰緒
〔高階氏へ〕

即位説大友皇子即位説

『日本書紀』には、天智天皇は実弟・大海人皇子を東宮(皇太子)に任じていたが、天智天皇は我が子可愛さの余り、弟との約束を破って大友皇子を皇太子と定めたと記されている。しかし漢詩集『懐風藻』や『万葉集』には「父・天智が大友皇子を立太子(正式な皇太子と定めること)していた」とあり、これを支持する学説もある。

父・天智が668年(天智7年)に即位してから4年目の671年(天智10年)に太政大臣となり、その政務を補佐した。『日本書紀』天智10年(671年)11月の条に、「大友皇子は左大臣蘇我赤兄臣・右大臣中臣金連・蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣ら五人の高官とともに宮殿の西殿の織物仏の前で「天皇の詔」を守ることを誓った。大友皇子が香炉を手にして立ち、「六人心を同じくして、天皇の詔を奉じる。もし違うことがあれば必ず天罰を被る」と誓った。続いて5人が順に香炉を取って立ち、臣ら五人、殿下に従って天皇の詔を報じる。もし違うことがあれば四天王が打つ。天神地祇もまた罰する。三十三天、このことを証し知れ。子孫が絶え、家門必ず滅びることを、などと泣きながら誓った。」とある。

丙辰 大友皇子在?裏西殿織佛像前 左大臣 蘇我赤兄臣 右大臣 中臣金連 蘇我果安臣 巨勢人臣 紀大人臣侍焉
大友皇子手執香鑪 先起誓盟曰 六人同心 奉天皇詔 若有違者 必被天罰 云云 於是 左大臣 蘇我赤兄臣等手執香鑪 隨次而起 泣血誓盟曰 臣等五人隨於殿下 奉天皇詔 若有違者 四天王打天神地祇 亦復誅罰 三十三天 証知此事 子孫當? 家門必亡 云云
ここでいう「天皇の詔」(詔勅)の内容は判然としないが、天智天皇の死後に大友皇子を践祚させることを指示していたものと考えられている。

大海人皇子(天武天皇)の反乱(壬申の乱)によりその治世は短く、明治3年(1870年)に弘文天皇の諡号を贈られるまで歴代天皇として数えられなかった。現在では、正式には即位していなかったものの倭姫王(天智天皇の皇后)を立てて、皇太子として称制していたのではないかとの説もある。

称制は、天智天皇と持統天皇の例があるが、どちらの称制期間も日本書紀には事実上天皇同然に書かれている。ただ大友皇子の場合は、天皇としての践祚の前に壬申の乱で敗れてしまったが故に、践祚に関連する儀式が出来なかったと思われており、天智崩御から壬申の乱終結まで「事実上の天皇」だったことは推測出来る。

壬申の乱の敗戦後、大友皇子は后・子女を伴って密かに東国へ逃れたとする伝説があり、神奈川県や千葉県に大友皇子に関連する史跡がいくつか残っている。